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夜行百モノカタリ

~月見月の百鬼夜行私的考察ブログ~

   

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犬神(いぬがみ)Inugami 白児(しらちご)Siratigo






安永5年(1776年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」「前篇陰」の犬神と白児です。














こちらが
画図百鬼夜行に描かれた石燕の犬神と白児





犬神(いぬがみ)は、狐憑き、狐持ちなどとともに、西日本に最も広く分布する犬霊の憑き物(つきもの)。近年まで、大分県東部、島根県、四国の北東部から高知県一帯においてなお根強く見られ、狐の生息していない四国を犬神の本場であると考える説もある。また、犬神信仰の形跡は、島根県西部から山口県、九州全域、さらに薩南諸島より遠く沖縄県にかけてまで存在している。宮崎県、熊本県球磨郡、屋久島ではなまって「インガメ、種子島では「イリガミ」とも呼ばれる。(wikipedia)

白児(しらちご) は犬神のそばに描かれている童子姿の者。犬神の弟子、白痴の子供の妖怪などの説がある(wikipedia)

さて
犬神は、その信仰もあり各地の伝承や書物など資料には事欠きませんが、白児となるとあまりの資料の少なさに、説としての紹介しかありません。
国書刊行会版「画図百鬼夜行」の犬神、白児の解説では
「厚誉春鶯廓玄の正徳6年(1716年)刊「本朝 怪談故事」巻4「犬神ノ祠」に犬神明神の由来を記す。不知(イサヤ)河のほとりの大樹の下で野宿した猟師は、猟犬小白丸が激しく吠えるので首を切ったところ、その首は樹の上の大蛇に食いついて、主人の一命を救った。猟師は祀って犬神明神とした。犬神とは憑物現象の1つで、西国に広く分布していた(吉田禎吾「日本の憑きもの」・小松和彦「憑霊信仰論」)。「化物ずくし」の化物の1つ。」とだけあり、画の解説というよりは犬神明神の由来といったところでしょうか。白児の説明もありません。
白児が、ただの童子なら犬神だけで良かったはずで、白児と銘打っているからにはやはり妖怪なのです。

それでは、私的考察をしていきたいと思います。
まず犬神です。

滋賀県に大瀧神社があります。
この大瀧神社と道路をはさんで向かい側に、小さなお堂が立っています。この中に祀られているのが、民話『犬上物語』のお話に出てくる小石丸にちなんで植えられた犬胴松です。かつて大瀧神社裏手は犬上川の渓谷で、そこに大蛇が棲んでいました。犬上の祖といわれている稲依別王(いなよりわけのみこ)は、愛犬の小石丸を連れて大蛇退治に出かけましたが、大蛇に出会えず疲れて寝ていると、小石丸が猛然と吠え、いくら止めても止まぬため、怒って犬の首をはねてしまったのです。ところが、首は背後から襲いかかろうとしていた大蛇にかみつき殺してしまったのです。稲依別王は小石丸に感謝し、祠を建てて弔い、その亡骸を埋めた上に松を植えました。それがいつしか「犬胴松」とよばれるようになったのです。

・・・いつの間にか猟師が稲依別王に摩り替わってますね、犬の名前も小白丸から小石丸に^^;

静岡県引佐町の東側に、三嶽山という山があり、この山に、「犬観音さま」という小さなお堂があります。
静岡県のたのしい民話によりますと、この三嶽山の近くに、一人の狩人が住んでいて、白犬を連れ三嶽山に狩に出たところ、やはり、木の根に腰をかけて休んでいたときに、吠え出した白犬の首を切ってしまいます。
そして犬の首は、飛び上がり大蛇に噛みついて殺してしまいます。
その後狩人は、命の恩ある白犬を、観音さまとして祀ったとのこと。

う~ん・・・ちなみに三嶽山の山頂には稲依別王の親である日本武尊が祀られています。
浜松市の観音山清水寺にも同様の故事があり、犬神堂が祀られています。

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山童(やまわらわ)Yamawarawa





安永5年(1776年)に刊行された
鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」「前篇陰」の山童です。















こちらが
画図百鬼夜行に描かれた石燕の山童





さて、wikipediaでは
山童(やまわろ、やまわらわ)
九州を始めとする西日本地方に伝わる童子姿の妖怪。河童が変化したもので、山間部に棲むといわれる。 また、これとは別に同音語の山わろという妖怪もある。
姿は10歳程度の童子のようで、頭には柿褐色の長い頭髪を生やし、全身が細かい毛に覆われている。胴は短く、2本の長い脚で直立して歩き、人の言葉を話すとされる。

とあり、石燕の山童を見ると頭髪や全身細かい毛に覆われているなどは確かにその通り。ですが10歳程度の童子には見えません・・・どう見ても親爺です。

また、三重県を除く西日本では、河童が山に移り住んで姿を変えたものが山童だといわれており、特に秋の彼岸に河童が山に入って山童となり、春の彼岸には川に戻って河童になるとする伝承が多い。

河童にしては水かきが見当たらないのは何故でしょうか・・・頭頂部は皿のようにも見えますが。

さらに・・・
宮崎県の西米良地方では、セコが夕方に山に入り、朝になると川に戻るという。熊本県南部ではガラッパが彼岸に山に入って山童になり、春の彼岸に川に戻ってガラッパになるという。このような河童と山童の去来を、田の神と山の神の季節ごとの去来、さらには夏季と冬季に二分される日本の季節に対応しているとする見方もある。

どうも九州地方の山童とは違うように思います。
これとは別に同音語の「山わろ」という妖怪もいるということで、そちらも調べてみました。

山わろ(やまわろ)は、日本の中部地方に伝わる妖怪。同じ発音の山童とは異なる。

木曽(長野県)の深い山の中に住んでいる大男で、エビやカニを捕らえて餌にするといい、人間のようにこれらを火で焼いて食べるともいう。
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、中国の書『神異経』からの引用で、山わろを中国西方の深山に住む人種と述べており、身長は約一丈、同様にエビやカニを捕らえて焼いて食べるとある。このような食習慣や、殺めた人間が病気になるといった記述は、同じく『和漢三才図会』にある中国の妖怪・山精にも同様の記述が見られる。
「和漢三才図会」山わろ

さらに
飛騨地域(岐阜県)では、大きいのを「山男」と呼び、小さいのを「山わろ」と区別しており、ワロは和郎の意味と考えられている。やはり、万が一これらに一発の銃弾を与えるようなものであれば、熱病、その他の恐るべき祟りをこうむって一家は根絶やしになると信じられており、復讐を恐れて山間の村人は口に出す(話題にする)ことが少なかったとされる。猿の如く素早く影を見つけるのも至難であると語られている。
岐阜県では、わろの正体の一説に、飛騨判官朝高(藤原姓)が捕虜として引き連れ、山奥に脱走した蒙古兵の集団という。

蒙古兵の集団かどうかは別にして、石燕の山童はこちらの「山わろ」に近いように思えます。でも山童(わらわ)なんですよね・・・ただの方言なのでしょうか?



江戸中期の画家佐脇嵩之の「百怪図巻」には、山わらうという10歳程度の童子のような山童が描かれている。





ちなみに、1841年(天保12年)に刊行された日本の奇談集「絵本百物語」に山男という画があります。
竹原春泉画『絵本百物語』より「山男」

北陸地方の奇談集『北越奇談』にも、人間と山男の交流の記述があり、どちらも描かれている山男は石燕の「山童」に似ているのです。
「北越奇談」より「山男衆人に交(まじわり)てよく人語を解す」。葛飾北斎画

この山男の正体については、前述の「絵本百物語」では山の気が人の形をとったものともあるが、妖怪研究家・多田克己は、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」にある山わろ、玃、山精、魍魎などが混同された結果として生まれたのではないか。また、ヒマラヤ山脈の雪男(イエティ)と同様、絶滅種類人猿のギガントピテクスの生き残りとの仮説も立てている。妖怪研究家・村上健司によれば山姫(山女)と同様、普通の人間が精神に異常を来たして山男となった例も少なくなかったとされる。とありました。

江戸時代、石燕という浮世絵師が山童という妖怪を風聞で知り、あるいは聞きつけ、それを描くときに、何を題材とし、何を思い、何を伝えようとしたのか・・・これまで上述してきた民間の伝承に加え、諸外国の書物や過去の文献を紐解き石燕独自の「山童」を描いたことは確かでしょう。しかしそれだけでは月見月は納得できません。百鬼となりはて夜行するに至る理由が必ずあったはずだと考えるからです。

気になるのは山岳信仰に密接に絡みついてくる修験道と山伏。
そして「山窩」と呼ばれた人々・・・

ここで少し「山窩」について見てみます。

サンカは、日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人びとを指す言葉である。その言葉が指し示す範囲は、時代や使用者によって大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。(wikipedia抜粋)

サンカ(山窩)と云う呼び名は、あくまでも外部からの呼称であり、近代(明治以降)になってから官憲用語として使われ始め、一般で使われるようになったようです。明治以前にもサンカと呼んでいた地方があったようで、地方により箕作り・箕直し・テンバモン・オゲ・ポン・カワラコジキ・などと呼ばれていました。自らはサンカと呼ばれることを嫌いショケンシ(世間師)・ケンシ・ヤコモンなどと称しており、山窩と云う言葉の持つイメージには、ネガティブ(犯罪者集団など)で差別的なものがあり、実体をあらわしたものではなく、アメリカにおいてインディアンの呼び名がネイティブアメリカンと呼ばれるように、本来は原日本人と呼ぶべきかもしれません。

サンカの源流と起源 

古代難民説
サンカ(山人)は、原日本人(あるいは縄文人)であり、ヤマト王権により山間部に追いやられた異民族であるとする説。柳田國男の山人論に基くが、柳田はサンカと山人を区別して記述している。また山人の起源に関する考察は、南方熊楠に私信において否定され、柳田もそれに積極的には反論していない。根拠に乏しい仮説であり、現在ではこれを主張する研究者を探すことは難しいが、俗説として広く信じられている

中世難民説
動乱の続いた室町時代(南北朝、戦国時代)の遊芸民、職能集団を源とする仮説。起源を比較的古くまで求めることが可能な言葉である「三家」、「三界」、「坂の者」などを根拠とする。喜田貞吉の研究が代表的である。語源を探る上で説得力を持つが、江戸時代末期の中国地方の文書にあらわれた「サンカ」との因果を検証することが困難である。

近世難民説
江戸時代末期の飢饉から明治維新の混乱までの間に山間部に避難した人びとが多数を占めるであろうという考察。サンカに関する記述が、近世末になって、天保の大飢饉が最も苛酷であった中国地方で登場することから、沖浦和光が主張している。

上記のように、起源については定かではありませんが、何れにしても山深い奥地でひっそりと暮らす人々がいたことは確かなようです。村人がこの人たちを気味悪く思い、町人が面白半分に妖怪化させたのかも知れません。空想ついでに、突拍子もないことですが、渡来人の可能性も捨て切れません。なんとなくその背後に秦一族や徐福がいるような気がします・・・そこまでは追求しませんが^^:

月見月には、子供から大人まで、男女を含め、山間部に住まう人々が、ある時は天狗になり山姥そして山童や木魅になる。出遭った場所や時代などにより語る人も様々で、名も様変わりするのではないかとみています。
そして平地ではなく山を選んだ。しかも山奥・・・いや山に隠れ住まわなければならない理由があったと見るべきでしょうか。人里を避け、一族だけで暮らさなければならなかった虐げられた恨みは、鬼と化すに十分。
石燕の筆によって息を吹き込まれ、蘇った山の妖怪たちは、積年の恨みを百鬼と共に夜行したのでしょう。

最後に
明治以降の隠語解説文献や辞典に「山妾」と書いて「やまわらわ」と読み、その意味が「淫慾の旺盛なる女のことをいふ。」とありました。山の妾(めかけ)・・・
また石燕はどうして山童の目をひとつにしたのか。に触れなかったのは、あまりにも辛いところに辿りつきそうだったので止めました。

次回は山から離れて犬神(いぬがみ) と白児(しらちご)です。

山姥(やまうば)Yamauba






安永5年(1776年)に刊行された
鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」「前篇陰」の山姥です。













で、
こちらが画図百鬼夜行に描かれた石燕の山姥。








山姥(やまうば、やまんば)は、奥山に棲む老女の怪。 日本の妖怪で、山に住み、人を食らうと考えられている。鬼婆(おにばば)、鬼女(きじょ)とも。(wikipedia)

各地方での呼び名も様々です。たとえば
宮崎県西諸県郡真幸町(現えびの市)では「ヤマヒメ」
岡山県の深山に存在する同じく「ヤマヒメ」
静岡県磐田郡では「ヤマババ」
静岡県周智郡春野町(現・浜松市)熊切では「ホッチョバア」
八丈島では「テッジ」(テッチとも)
香川県では「川女郎(かわじょろう)」
長野県東筑摩郡では「ウバ」

説話には、「牛方山姥」や「食わず女房」、「天道さんの金の鎖」「糠福米福(米福粟福)」「姥皮」など多数あり、高知県では、山姥が家にとり憑くとその家が急速に富むという伝承があり、なかには山姥を守護神として祀る家もあるといいます。

謡曲では「安達原」の「黒塚」、諏訪千本松原の「舌長姥」なども山姥の一種。
人形浄瑠璃には「嫗山姥(こもちやまんば)」などがあります。

山姥の原型は、先住民族の末裔、木地屋やサンカといった、山間を流浪する民であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられており、「遠野物語」には、狂人、山の神に娶られる者、あるいは山人に攫われる者といった、山隠れする女が山姥になったという話が伝えられています。

特に興味深いのは
猟に出た山神の兄弟が、お産に苦しむ山姥に出会うが、長兄オホヤマツミノミコトがこれを助け、七万八千の子を産み、彼に猟運を授けた(長野県飯田市上村程野の伝説)や、一度に七十五人の子を産むという山神(長野県飯田市上村下栗)、徳島県では一度男の肌に触れただけで八万近くの子を妊娠した山神などがいる。宮崎県の千二百人の子を出産する山の女神。
山神の妻になった乙姫は一度に四百四人あるいは九万九千もの子を産んだと伝えられている(徳島や高知の昔話)。

加えて
「牛方山姥」では、殺された山姥の死体が、薬、金などの貴重なものとなった。
山姥の大便や乳が、錦や糸などの貴重な宝物や、不思議な力を持つ品になったといいます。

これらは日本神話における国産みがベースになっているようですが、更に

『三枚の御札』は、小僧が山姥に追いかけられ、山姥に向かって投げた御札が、川や山などの障害物を出す話で、まさしくこの構成は、イザナギが 黄泉の国でイザナミの姿を見てしまい、追いかけられて逃げ帰るという神話であり、地母神の劣化が、山姥という妖怪の本源と考えて良い。と記されていました。
イザナミは、出雲と伯耆の国境の比婆山に葬られたと古事記には記されていますが、この「比婆山」が山姥の語源という指摘もあるそうです。

この神の劣化が妖怪の本源という件こそが、百鬼夜行全体に流れる大きなテーマのように思えます。
日本の神話における隠された神のルーツにまで手を染めようとは思いませんが、あるいは百鬼夜行はパンドラの箱なのかも知れません。

話を戻して、中国の昔話にも山姥が登場します。
どんな物にでも姿を変える事が出来る山姥(やまんば)が、山奥の村のブタ小屋に火をつけ、それを修理する大工に変装しブタを盗むというお話です。最後におじいさんとおばあさんに鉄の熊手でさんざんなぐられ泣きながら逃げ出すのですが、人を襲わず豚を狙うところがなんとも可愛いです。

本題はここからです。
高知県には山姥神社があります。
由緒を見てみますと
その昔、玉尾御前(姓氏不詳)の御子の乳母として伊勢の国から土佐に入り、今の高知市一宮に住んでいたが、天明元年(1781年)乳母も老婆となり山に追放され、現在の鎮座地を永住の地と決めた。その後、神去り(身罷る、亡くなる)て御神徳顕現により藤左衛門と云う人によりて奉祀されたという。
御神徳だが、漁師が海に出て進路を見失えば、この細藪山の岩(御神体)より光が発せられ無事に家路につけたと云う。また、この部落に住んでいた農家は毎年豊作に恵まれたが、あまりにも実るもので怖くなり畑に火をつけた。それ以後作物は育たなかった等色々と語り継がれている。

・・・これは姥捨てですよ

「昔のある山村の話です。その村では六十歳になると、里から五里以上も離れた山奥に捨てられるならわしでした。年老いて働けなくなるからです。一日二度の食事にもこと欠くほど人々は貧しい生活をしていました。ですから、働かないものが食べることはできなかったのです。老人が捨てられるのは口べらしのためでした。」
(楢山節考より)

真実かどうかはわかりませんが、現実にあったとすれば紛れもなく悲惨な光景を生むことは間違いありません。

棄老については、「大和物語」「更級日記」「更科紀行」にまつわる話があり、「今昔物語」の「七十に余る人を他国に流し遣りし国の語」「信濃の国の夷母棄山の語」にも見られます。

姥捨山と、山姥

先にも書きましたが、山姥の原型は、先住民族の末裔、木地屋やサンカ、あるいは山間を流浪する民、山の神に仕える巫女、狂人、山の神に娶られる者、山人に攫われる者、山隠れする女。
なのかも知れません。

ですが、妖怪化するには余程の恨みや憎しみがなければ鬼にはなれない。
鳥山石燕の山姥は、どことなく寂しそうな気がいたします。

貧しい暮らしを強いられ、食べるものも少ない中で、孫がお腹を空かせて泣いている。
私が居なければ・・・と考えるのはおかしいでしょうか。
息子も涙を流して言います・・・このままでは皆、飢えて死んでしまいます。

病を患っていたり、今でいう認知症であったなら尚のことかも知れません。
今、この飽食の時代にあっても似たような事件が目に付きます。

・・・そこはまさしく修羅場

石燕はこうした時代背景と、多くの伝説や伝承を山姥に託したのかも知れません。


幽谷響(やまびこ)Yamabiko





安永5年(1776年)に
刊行された鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」「前篇陰」の幽谷響です。













こちらが
画図百鬼夜行に描かれた石燕の幽谷響です。






Wikipediaを見ますと
山彦(やまびこ)は、日本の山の神・精霊・妖怪である。
また、山や谷の斜面に向かって音を発したとき、それが反響して遅れて返って来る現象を、山彦が応えた声、あるいは山彦が引き起こした現象と考え「山彦」と呼ぶ。その場合は幽谷響とも表記された。また、樹木の霊「木霊(木魂)」が応えた声と考え「木霊(こだま)」とも呼ぶ。
とありました。

それは良いとして、あれは何ですかね・・・

猿?

犬?

何をモチーフとしていているのか
またどこの文献から得たのか
実に興味があります。
しかも、人を小馬鹿にしたような仕草・・・

というわけで、いつものように調べてみました。

幽谷響(やまびこ)は山の中で人間の声などを反響させる妖怪。サルのような子イヌのような小動物の姿で描かれることが多い。「山彦」と書かれることも多いが、「彦」という字は本来は「日子」と書き、日の神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫であることを示す。したがってヤマビコ現象が山の神さまの仕業と考えられていたことに由来するが、次第に山の中に棲む妖怪の仕業と考えられるようになり、山童(ヤマワロ)、玃(ヤマコ)、彭侯(ホウコウ)などの山の妖怪のイメージを取り込みながら、『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』などの妖怪画に描かれるような小動物の妖怪になっていったものと考えられる。

と、ありました。
なるほど・・・
彭侯(ほうこう) (出典:寺島良安『和漢三才図会』)
彭侯(ほうこう)
中国の怪異説話集『捜神記』によると、呉の時代に敬叔と言う人物がクスノキの大木を切ると、血が流れて人の顔を持つ犬のような彭侯が現れ、煮て食べると犬の味がしたとある。また同書によれば、中国の聖獣・白澤が述べた魔物などの名を書き記した白澤図の中に、彭侯の名があると記述されている。
彭侯の名は江戸時代の日本にも伝わっており、当時の怪談集『古今百物語評判』、百科事典『和漢三才図会』、鳥山石燕による妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも中国の妖怪として紹介されている。『和漢三才図会』では『本草綱目』からの引用として前述の敬叔の逸話を述べており、彭侯を木の精、または木魅(木霊)のこととしている。
山中の音の反響現象である山彦は、木霊(木の霊)が起こすと考えられたことから、かつて彭侯は山彦と同一視されることもあった。江戸時代の妖怪画集である『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』などにある、犬のような姿の山彦の妖怪画は、この彭侯をモデルにしたという説もある。(wikipedia)

玃(やまこ) (出典:寺島良安『和漢三才図会』)
玃(やまこ)
中国の本草書『本草綱目』によれば、猴(こう。サルのこと)より大きいものとあり、『抱朴子』によれば、800年生きた獼猴(みこう。アカゲザルのこと)が「猨」となり、さらに500年生きて玃猿(かくえん)になるとある。玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある。
日本では、江戸時代に玃猿が日本国内にもいるものと信じられ、同時代の類書『和漢三才図会』に「玃(やまこ)」の名で説明されており、同項の中で日本の飛騨・美濃(現・岐阜県)の深山にいる妖怪「黒ん坊(くろんぼう)」の名を挙げ「思うに、これは玃の属だろうか」と述べられている。
日本の江戸時代の絵師・鳥山石燕による妖怪画集『今昔画図続百鬼』でも、玃猿の姿が「覚」として描かれており、本文中には黒ん坊のことが「飛騨美濃の深山にあり」と述べられている。

"山彦"が"玃(=覚:サトリ)"と同一視されたことについては、民族学者 柳田國男 もその著「妖怪談義」において、「サトリという人の心中を見抜く怪物と、人をまねる山彦の伝承は同根のものであろう」と示唆しています。(wikipedia)

※『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)は、江戸時代中期、正徳3(1713)年頃出版された挿絵入り百科事典です。中国、明の『三才図会』(王圻編)にならい、30余年の歳月をかけ大坂の医師寺島良安によって編纂されました。本文は漢文で解説されています。

何れにしても幽谷響は彭侯、あるいは玃猿などをモデルにしたということですが・・・似てねぇ~^^;





今昔画図続百鬼』。
鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』の続編「雨」の中に収録されています。
「覚」として描かれているです。











今昔百鬼拾遺』。1780年(安永10年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。モデルにされたという説のある彭侯。「雲」に収録されています。








まだまだ調べてみました^^
山彦神社記

徳島県の山彦神社では、表向きの祭神は金山毘古命(神話に出てくる鉱山の神)とされているがこれは仮の名で、実は伊勢伝左ヱ門という稲田力郎兵ヱの家臣を祭ってあるという。通称山彦はんと呼ばれて親しまれているこの神様に関する伝説は有名で、脇町新町に住み、文武の達人で、また魔術を心得て奇怪な行いが多かったのでついに主君に忌み嫌われて正徳4年(1714)3月25日処刑されたという。(美馬郡郷土誌)

石燕は処刑される2年前の正徳2年(1712年)に生まれています。情報の未発達な時代とはいえ、風聞で聞き知っていたのかも知れません。




次は英彦山です。

古くは日子山と書き,嵯峨天皇のときに彦山と変わり,1729年(享保14)霊元上皇の院宣によって英彦山と書くようになった。英彦山は奈良時代の医僧法蓮の入峰以来,山伏の修験道場として栄え,最盛期には僧坊3800を数え,その信仰は九州一円に及び,大峰山,羽黒山と並んで日本の三大修験道場とされた。

英彦山神社によりますと

御祭神
主神  天忍穂耳命
配神  伊邪那岐命
     伊邪那美命

お由緒
英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
嵯峨天皇の弘仁10年(819年)詔(みことのり)によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで、霊元法皇。享保14年(1724年)には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山」と改称され現在に至ってます。

しかし英彦山の祭神は変遷しており、英彦山の北岳にはオシホミミの命(吾勝命)が鎮座すると言われていますが、元々ここには大国主命が鎮座していたといわれています。
また南岳には、
ヒコホホデミの命(山幸彦)が鎮座し、中岳の中宮は、市杵島姫命が祭神となっています。上宮は伊邪那岐命と思われます。下宮は大国主が祭神です。

元々は大国主の一族と宗像三女神が英彦山の山頂に鎮座していたのを下ろして、代わりに邪馬壹国の天子一族を山上に祀ったものと考えられます。

日本書紀や古事記に見る神々が先ほどから見え隠れしていますが、う~ん、どうも幽谷響とは結びつかない・・・
謎が深まるばかりで、石燕の幽谷響を説明することができません。
やはり、玃(ヤマコ)や彭侯(ホウコウ)などの山の妖怪のイメージを取り込みながら、狩野派独特の画風として妖怪画に描かれたのでしょうか?

昔の人々は山彦を自然現象ではなく、山谷に人以外の者(妖怪)がいてそれが人の声をまねているのだと考えられていました。茨城では〈あまのじゃく(天邪鬼)〉、静岡では〈山の小僧〉、鳥取では呼子(よぶこ)とか呼子鳥(よぶこどり)というものが声を発しているのだと伝えています。
呼子は、声真似の他に自分から呼びかけ、応えたものを谷底に落とすと言われ、高知県では昼夜問わず深山で突如聞こえる恐ろしい声を山彦と指します。福岡県では『山おらび』と言われ、山彦と同じく叫んだ声を真似しこれを繰返すと段々声が大きくなって、ついにはその凄まじい声で殺されてしまいますが、この時割れ鐘を叩くと難を避けられると伝えられています。

また
木の神霊が返事をしたと考える場合は「木魅」、山の神が返事をしたと考える場合は「山彦」。
そして妖怪が返事をしたと考える場合は「幽谷響」と記され、伝承に残る幽谷響は姿が見えないとされる事も多いそうです。
やはり小馬鹿にしているな・・・
悪戯好きで、おいそれと捕らえられはしない。か

それにしても、この変な妖怪が夜行するには、やはりそれなりの理由があるはずです。
なぜなら、百鬼夜行に出遭うと死んでしまうわけで、ただの行進とはわけが違います。

月見月的に、百鬼夜行とは
「裏切られ捨てられた深い悲しみが心を狂わせ、
恨みや憎しみと癒されぬ思いが心を捻じ曲げていく。
悲痛な叫びは誰にも届かず、
深い闇の底で絶望し、やがて鬼となりはてる。」
そんな悲しい夜行だと感じています。

石燕の画図百鬼夜行は、その墓標だと感じざるを得ません。
だって、どの妖怪も愛くるしい表情をしていて、鬼を感じさせず、怖さというものが無いのです。

そういう意味では水木しげる先生も似てますね。

天狗(てんぐ)Tengu



安永5年(1776年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」「前篇陰」の天狗です。

日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物です。









こちらが本家本元、石燕の天狗です。



なぜか鳥なんですねえ・・・









天狗って

こんなんだったり

こんな風にせめて人型ではないの?
天狗って、石燕の鳥そのもの(カラスでもなさそう)ではないと思うんですけど・・・

で、早速調べてみました^^

一般的に天狗とは、山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。

またそのルーツは海外にあるという説が民俗学の中では一般的なようです。容姿のルーツはインドの不死鳥ガルダだという説があります。また、名前のルーツは古代中国にあるという説を唱える学者が多いです。隕石が落下する様子、あるいは流星が空で輝く様子を、古代中国の人々が「天の犬がいる」と説明したことから、「天狗(てんこう)」という妖怪が生まれたといいます。

調べているうちに、天狗にもいろいろ種類があることも知りました。

長い鼻と赤ら顔の天狗が「大天狗」、天狗社会の中でも頂点に立つ天狗の姿だそうです。
その下に烏天狗や川天狗、尼が堕落した女天狗等がいるとのこと。
笑えたのが、天狗の中で最も地位の低い白狼(木っ端)天狗。狼が年を経て神通力を得た天狗で、上位の天狗の為に薪を売って金を稼いだり、登山する人間を背負う等の仕事をしているそうな^^;
どこの世界も大変なんだね。

ウィキペディアに掲載されていた天狗にこんなのもありました。
山海経に記されている天狗

天狗が日本の史書の中に初めて登場したのは『日本書紀』です。
飛鳥時代の舒明天皇9年(637年)春2月戊寅の日(23日)のこと、隕石落下を僧の旻が「天狗である」と説明した箇所が初出とされています。旻は次にように奏上します。

「流星に非ずして、是れ天狗なり。其の吠ゆる声、雷に似たるのみ」

旻(本名は日文とも言われる)は、608年に派遣された第2回遣隋使として隋に入り、24年間仏教と易学について学んだ後、632年に日本に帰国しています。そんな人が「天狗」という外国の新しい概念について奏上するのですから、当時でもかなり影響があったでしょう。
しかし、舒明天皇9年以降、「天狗」という言葉は、日本の史書にまったく登場しませんでした。
知切光歳(2004[原著は1975])によれば、『万葉集』のような歌集や『日本霊異記』にも一切天狗が登場しないといいます。特に、『日本霊異記』は修験道の創始者である役ノ行者について詳しく書かれているにも関わらず、登場しないというのです。

637年以降、まったく日本の書物に登場しなかった天狗が、平安時代中期、10世紀末成立の『宇津保物語』によって復活を告げます。そして12世紀に書かれた、『今昔物語集』では天狗が登場する仏法説話が数多く描かれ、さらには『今昔物語集』の絵巻的存在である13世紀末の『天狗草子』や14世紀に描かれた挿絵(『是害坊絵』)では、大半の天狗が二足歩行をする鳶のような怪鳥の容姿をしているのです。

その後武家中心の政治が始まるとともに、天狗は数々の軍記物に登場し、天下動乱を引き起こす妖怪となります。
『平家物語』には、次のような言葉があります。
「天狗と申すは人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根生え、飛びあるくものなり。人の心を転ずる事、上戸のよき酒をのめるが如し。小通を得て知らぬことをば、知らずといえへども未来をば悟る。是れと申すは持戒のひじり、もしくは智者などの我れに過ぎたる者あらじと慢心御こしたる故に、仏にもならず悪道にも落ちずしてかゝる天狗といふ物に成るなり。」
『源平盛衰記』にも、似たような記述が見られます。
鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられています。

時代を重ね、南北朝時代を舞台にした軍記物『太平記』では、いよいよ天狗の法力が高まり、政治の表舞台にも出現するようになりました。
「高時天狗舞」では、天下一大事のときに田楽舞にふける北条八代執権高時を、十数人の天狗(怪鳥の容姿)がいい様にもてあそびます。
また、新田義貞が北条討伐の兵を挙げたときには、天狗山伏が予知能力と迅速さを生かし伝令として活躍しています。
さらに、楠正行が戦死し足利尊氏が朝廷への圧力を強めたときには、天狗たちは仁和寺にある六本杉で「天狗評定」を行います。評定の最中、天狗道に堕ちたことへの罰として、加わっている者全員が火に焼かれるも(天狗道に堕ちたものは日に三度熱鉄の玉を飲ませられるといわれる)、二刻後には何事もなかったかのように蘇生して評定を続けたといいます。評定の結果決まった策略は、尊氏の弟直義の妻の子どもとして転生する、家臣たちに邪法を吹き込むといったようなものであったといいます。そして、1389年には、愛宕山で「天狗集会」が開かれたとされています。

こうした室町時代に神格化された天狗は、江戸時代以降にはその威厳が少しずつ衰えていき、明治時代には、国家神道の興隆を目指す政府によって、「神仏分離令」が出され、修験道が急激に衰退します。このため、天狗は重要な信仰の担い手を失いました。

表舞台から消えてしまった天狗は、民間伝承や天狗研究の中で生き続けたのです。
学者による天狗研究が始まったのは、林羅山(『本朝神社考』)からというのが、多くの研究者の意見です。その後、新井白石の『鬼神論』や荻生徂徠の『天狗説』、諦忍の『天狗名義考』などでも天狗は取り上げられます。
幕末には、平田篤胤が、羅山の天狗観を受け継ぐとともに、幼少期に天狗攫(さら)いにあったという仙道寅吉という少年の証言に基づいて、独自の幽冥観を打ち出している。それを書物にしたのが『仙境異聞』です。また、近代には、柳田國男や井上円了により民俗学の分野において天狗研究がさらに盛んに行われるようになりました。

民間伝承では奥三河の花祭り、白山祭り、宮城県金成町の延年 小迫祭りや毛越寺の延年(もうつうじ)、金峰神社 延年チョウクライロ舞などに見られ、能楽には「鞍馬天狗」「葛城天狗」「松山天狗」「是害(せがい)」「第六天」「大会」「車僧」等の曲があります。その中には著名な山の天狗、「彦山の肥前坊」「白峰の相模坊」「大山の伯耆坊」「鞍馬の大僧正」「愛宕山の太郎坊」等が描かれ、今も庶民信仰の対象となり、本社、本寺に並んで信者の多い所もあるそうです。

天狗は古来より多くの伝説や信仰をもたらし、神格化されてきたのです。

こうして見てきますと、石燕の描く天狗を紐解くためには平安時代中期に描かれた書物に鍵があるようです。

二足歩行をする鳶のような怪鳥の容姿・・・

・・・鳶
鳶ですか・・・

中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈されたと言います。

最後に
数ある天狗伝説の中に、天狗は日本書記のなかのサルタヒコ神という説があります。
サルタヒコ神は、一般に道の神・道祖神と考えられています。
後に修験道が盛んになりますと天狗の神様ともみなされるようになりました。
ちなみに「サルタヒコ神」の特徴は、赤ら顔に長い鼻修験山伏の服装をしており、鼻の長さ七握、背の高さ七尺、また口の端が光り、目は鏡のように照っていることは赤いホオズキに似ている。とあります。

不思議なことに「木魅」に見るイザナギ・イザナミ同様祖神が出てきました。
「百鬼夜行」その全貌はまだ見えませんが、奥は深そうです。


  
L-シトルリン

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