夜行百モノカタリ
~月見月の百鬼夜行私的考察ブログ~
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天狗(てんぐ)Tengu
安永5年(1776年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」「前篇陰」の天狗です。
日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物です。
こちらが本家本元、石燕の天狗です。
なぜか鳥なんですねえ・・・
こんなんだったり
こんな風にせめて人型ではないの?
天狗って、石燕の鳥そのもの(カラスでもなさそう)ではないと思うんですけど・・・
で、早速調べてみました^^
一般的に天狗とは、山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。
またそのルーツは海外にあるという説が民俗学の中では一般的なようです。容姿のルーツはインドの不死鳥ガルダだという説があります。また、名前のルーツは古代中国にあるという説を唱える学者が多いです。隕石が落下する様子、あるいは流星が空で輝く様子を、古代中国の人々が「天の犬がいる」と説明したことから、「天狗(てんこう)」という妖怪が生まれたといいます。
調べているうちに、天狗にもいろいろ種類があることも知りました。
長い鼻と赤ら顔の天狗が「大天狗」、天狗社会の中でも頂点に立つ天狗の姿だそうです。
その下に烏天狗や川天狗、尼が堕落した女天狗等がいるとのこと。
笑えたのが、天狗の中で最も地位の低い白狼(木っ端)天狗。狼が年を経て神通力を得た天狗で、上位の天狗の為に薪を売って金を稼いだり、登山する人間を背負う等の仕事をしているそうな^^;
笑えたのが、天狗の中で最も地位の低い白狼(木っ端)天狗。狼が年を経て神通力を得た天狗で、上位の天狗の為に薪を売って金を稼いだり、登山する人間を背負う等の仕事をしているそうな^^;
どこの世界も大変なんだね。
山海経に記されている天狗
天狗が日本の史書の中に初めて登場したのは『日本書紀』です。
こうした室町時代に神格化された天狗は、江戸時代以降にはその威厳が少しずつ衰えていき、明治時代には、国家神道の興隆を目指す政府によって、「神仏分離令」が出され、修験道が急激に衰退します。このため、天狗は重要な信仰の担い手を失いました。
表舞台から消えてしまった天狗は、民間伝承や天狗研究の中で生き続けたのです。
学者による天狗研究が始まったのは、林羅山(『本朝神社考』)からというのが、多くの研究者の意見です。その後、新井白石の『鬼神論』や荻生徂徠の『天狗説』、諦忍の『天狗名義考』などでも天狗は取り上げられます。
幕末には、平田篤胤が、羅山の天狗観を受け継ぐとともに、幼少期に天狗攫(さら)いにあったという仙道寅吉という少年の証言に基づいて、独自の幽冥観を打ち出している。それを書物にしたのが『仙境異聞』です。また、近代には、柳田國男や井上円了により民俗学の分野において天狗研究がさらに盛んに行われるようになりました。
民間伝承では奥三河の花祭り、白山祭り、宮城県金成町の延年 小迫祭りや毛越寺の延年(もうつうじ)、金峰神社 延年チョウクライロ舞などに見られ、能楽には「鞍馬天狗」「葛城天狗」「松山天狗」「是害(せがい)」「第六天」「大会」「車僧」等の曲があります。その中には著名な山の天狗、「彦山の肥前坊」「白峰の相模坊」「大山の伯耆坊」「鞍馬の大僧正」「愛宕山の太郎坊」等が描かれ、今も庶民信仰の対象となり、本社、本寺に並んで信者の多い所もあるそうです。
天狗は古来より多くの伝説や信仰をもたらし、神格化されてきたのです。
こうして見てきますと、石燕の描く天狗を紐解くためには平安時代中期に描かれた書物に鍵があるようです。
二足歩行をする鳶のような怪鳥の容姿・・・
天狗が日本の史書の中に初めて登場したのは『日本書紀』です。
飛鳥時代の舒明天皇9年(637年)春2月戊寅の日(23日)のこと、隕石落下を僧の旻が「天狗である」と説明した箇所が初出とされています。旻は次にように奏上します。
「流星に非ずして、是れ天狗なり。其の吠ゆる声、雷に似たるのみ」
「流星に非ずして、是れ天狗なり。其の吠ゆる声、雷に似たるのみ」
旻(本名は日文とも言われる)は、608年に派遣された第2回遣隋使として隋に入り、24年間仏教と易学について学んだ後、632年に日本に帰国しています。そんな人が「天狗」という外国の新しい概念について奏上するのですから、当時でもかなり影響があったでしょう。
しかし、舒明天皇9年以降、「天狗」という言葉は、日本の史書にまったく登場しませんでした。
知切光歳(2004[原著は1975])によれば、『万葉集』のような歌集や『日本霊異記』にも一切天狗が登場しないといいます。特に、『日本霊異記』は修験道の創始者である役ノ行者について詳しく書かれているにも関わらず、登場しないというのです。
637年以降、まったく日本の書物に登場しなかった天狗が、平安時代中期、10世紀末成立の『宇津保物語』によって復活を告げます。そして12世紀に書かれた、『今昔物語集』では天狗が登場する仏法説話が数多く描かれ、さらには『今昔物語集』の絵巻的存在である13世紀末の『天狗草子』や14世紀に描かれた挿絵(『是害坊絵』)では、大半の天狗が二足歩行をする鳶のような怪鳥の容姿をしているのです。
その後武家中心の政治が始まるとともに、天狗は数々の軍記物に登場し、天下動乱を引き起こす妖怪となります。
637年以降、まったく日本の書物に登場しなかった天狗が、平安時代中期、10世紀末成立の『宇津保物語』によって復活を告げます。そして12世紀に書かれた、『今昔物語集』では天狗が登場する仏法説話が数多く描かれ、さらには『今昔物語集』の絵巻的存在である13世紀末の『天狗草子』や14世紀に描かれた挿絵(『是害坊絵』)では、大半の天狗が二足歩行をする鳶のような怪鳥の容姿をしているのです。
その後武家中心の政治が始まるとともに、天狗は数々の軍記物に登場し、天下動乱を引き起こす妖怪となります。
『平家物語』には、次のような言葉があります。
「天狗と申すは人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根生え、飛びあるくものなり。人の心を転ずる事、上戸のよき酒をのめるが如し。小通を得て知らぬことをば、知らずといえへども未来をば悟る。是れと申すは持戒のひじり、もしくは智者などの我れに過ぎたる者あらじと慢心御こしたる故に、仏にもならず悪道にも落ちずしてかゝる天狗といふ物に成るなり。」
『源平盛衰記』にも、似たような記述が見られます。
鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられています。
時代を重ね、南北朝時代を舞台にした軍記物『太平記』では、いよいよ天狗の法力が高まり、政治の表舞台にも出現するようになりました。
「高時天狗舞」では、天下一大事のときに田楽舞にふける北条八代執権高時を、十数人の天狗(怪鳥の容姿)がいい様にもてあそびます。
また、新田義貞が北条討伐の兵を挙げたときには、天狗山伏が予知能力と迅速さを生かし伝令として活躍しています。
さらに、楠正行が戦死し足利尊氏が朝廷への圧力を強めたときには、天狗たちは仁和寺にある六本杉で「天狗評定」を行います。評定の最中、天狗道に堕ちたことへの罰として、加わっている者全員が火に焼かれるも(天狗道に堕ちたものは日に三度熱鉄の玉を飲ませられるといわれる)、二刻後には何事もなかったかのように蘇生して評定を続けたといいます。評定の結果決まった策略は、尊氏の弟直義の妻の子どもとして転生する、家臣たちに邪法を吹き込むといったようなものであったといいます。そして、1389年には、愛宕山で「天狗集会」が開かれたとされています。
「天狗と申すは人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根生え、飛びあるくものなり。人の心を転ずる事、上戸のよき酒をのめるが如し。小通を得て知らぬことをば、知らずといえへども未来をば悟る。是れと申すは持戒のひじり、もしくは智者などの我れに過ぎたる者あらじと慢心御こしたる故に、仏にもならず悪道にも落ちずしてかゝる天狗といふ物に成るなり。」
『源平盛衰記』にも、似たような記述が見られます。
鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられています。
時代を重ね、南北朝時代を舞台にした軍記物『太平記』では、いよいよ天狗の法力が高まり、政治の表舞台にも出現するようになりました。
「高時天狗舞」では、天下一大事のときに田楽舞にふける北条八代執権高時を、十数人の天狗(怪鳥の容姿)がいい様にもてあそびます。
また、新田義貞が北条討伐の兵を挙げたときには、天狗山伏が予知能力と迅速さを生かし伝令として活躍しています。
さらに、楠正行が戦死し足利尊氏が朝廷への圧力を強めたときには、天狗たちは仁和寺にある六本杉で「天狗評定」を行います。評定の最中、天狗道に堕ちたことへの罰として、加わっている者全員が火に焼かれるも(天狗道に堕ちたものは日に三度熱鉄の玉を飲ませられるといわれる)、二刻後には何事もなかったかのように蘇生して評定を続けたといいます。評定の結果決まった策略は、尊氏の弟直義の妻の子どもとして転生する、家臣たちに邪法を吹き込むといったようなものであったといいます。そして、1389年には、愛宕山で「天狗集会」が開かれたとされています。
こうした室町時代に神格化された天狗は、江戸時代以降にはその威厳が少しずつ衰えていき、明治時代には、国家神道の興隆を目指す政府によって、「神仏分離令」が出され、修験道が急激に衰退します。このため、天狗は重要な信仰の担い手を失いました。
表舞台から消えてしまった天狗は、民間伝承や天狗研究の中で生き続けたのです。
学者による天狗研究が始まったのは、林羅山(『本朝神社考』)からというのが、多くの研究者の意見です。その後、新井白石の『鬼神論』や荻生徂徠の『天狗説』、諦忍の『天狗名義考』などでも天狗は取り上げられます。
幕末には、平田篤胤が、羅山の天狗観を受け継ぐとともに、幼少期に天狗攫(さら)いにあったという仙道寅吉という少年の証言に基づいて、独自の幽冥観を打ち出している。それを書物にしたのが『仙境異聞』です。また、近代には、柳田國男や井上円了により民俗学の分野において天狗研究がさらに盛んに行われるようになりました。
民間伝承では奥三河の花祭り、白山祭り、宮城県金成町の延年 小迫祭りや毛越寺の延年(もうつうじ)、金峰神社 延年チョウクライロ舞などに見られ、能楽には「鞍馬天狗」「葛城天狗」「松山天狗」「是害(せがい)」「第六天」「大会」「車僧」等の曲があります。その中には著名な山の天狗、「彦山の肥前坊」「白峰の相模坊」「大山の伯耆坊」「鞍馬の大僧正」「愛宕山の太郎坊」等が描かれ、今も庶民信仰の対象となり、本社、本寺に並んで信者の多い所もあるそうです。
天狗は古来より多くの伝説や信仰をもたらし、神格化されてきたのです。
こうして見てきますと、石燕の描く天狗を紐解くためには平安時代中期に描かれた書物に鍵があるようです。
二足歩行をする鳶のような怪鳥の容姿・・・
・・・鳶
鳶ですか・・・
中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈されたと言います。
数ある天狗伝説の中に、天狗は日本書記のなかのサルタヒコ神という説があります。
サルタヒコ神は、一般に道の神・道祖神と考えられています。
後に修験道が盛んになりますと天狗の神様ともみなされるようになりました。
ちなみに「サルタヒコ神」の特徴は、赤ら顔に長い鼻修験山伏の服装をしており、鼻の長さ七握、背の高さ七尺、また口の端が光り、目は鏡のように照っていることは赤いホオズキに似ている。とあります。
ちなみに「サルタヒコ神」の特徴は、赤ら顔に長い鼻修験山伏の服装をしており、鼻の長さ七握、背の高さ七尺、また口の端が光り、目は鏡のように照っていることは赤いホオズキに似ている。とあります。
不思議なことに「木魅」に見るイザナギ・イザナミ同様祖神が出てきました。
「百鬼夜行」その全貌はまだ見えませんが、奥は深そうです。PR
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